その160 豊臣秀吉の「ねね」

 その154「男女格差について」の世界経済フォーラム(WEF)による「グローバル・ジェンダーギャップ・レポート(世界男女格差報告書)」に端を発し、日本女性の社会的地位について調べて参りました。
 その155では「はたして日本は女性が虐げられてきた国か」と問いかけ、その158・159では渡辺京二著『逝きし世の面影』の「女の位相」を引用し、幕末から明治初期の女性がその社会構造の中で、どのような存在であったかを当時、来日していた多くの外国人から見た日本人女性観を書き記しました。

 今回は時代が上がって豊臣秀吉の妻「ねね」を話題といたしましょう。
 戦国時代に活躍したのは男の武将ばかりではありませんでした。武将を陰ながら支えた妻の存在は大きいものがありました。
 ここでは戦国・安土桃山時代の武将で織田信長に仕えた木下藤吉郎が、やがて羽柴秀吉と名乗り、本能寺の変ののち明智光秀を滅ぼし天下を統一し、関白から太政大臣まで上りつめた豊臣秀吉に焦点を当て、豊臣政権の屋台骨となった妻「ねね」(後の北政所・高台院)の存在について、『日本史を動かした女性たち』(北川智子著・株式会社ポプラ社)から抜き出しお伝えしたいと思います。

 秀吉もねね(以下「ネネ」と片仮名表記とする。)も幼少期については様々な伝説があるものの明確ではありません。
 二人とも歴とした家柄の生まれでないことは確かです。二人とも生まれた年さえも確証がないほどですから。
 また、二人がどういういきさつで出会って結婚したのか、確かなことは一切わかっていないとのことです。

 秀吉はネネを娶り、当初、尾張(現在の愛知県)に住んでいましたが、織田信長のもとで功を重ねた秀吉は、今濱(現在の滋賀県)の藩主に取り立てられました。
 もともとは、足軽という低い身分だったので、城主になった時点で一世一代の大出世でした。
 その秀吉ですが、ネネとの夫婦間で、夫の秀吉が絶対的に強く全てを一人で決めていたのかというとそうではなかったようです。
 ネネははっきり物を言う性格であったようです。それを証明する歴史的資料として、ネネが秀吉に宛てた手紙が現存しているとのことです。(『太閣書信』)

 たとえば秀吉が、年貢と諸役(雑税)を厳しくしようと税の引き上げを決めたときです。税率が上がると、町人たちは反発するに決まっています。町人の声を聞いてか案じてか、ネネは政策転換に反対する手紙を秀吉に送りました。
 それに対し、秀吉は彼女の意見を聞き入れる形で年貢の歩合を据え置きにしました。財源がなければ大名は生きていけません。家臣に支払いができなければ反発されてしまいます。財源を確保しつつ、安定した統治をする方法を二人で話し合ったのです。
 このように夫、秀吉の決断が全てではなかったのです。
 ネネがはっきり物を言う性格であったことについては、信長がネネに宛てた手紙、「言いたいことがあっても、すべて言うのではなく、ある程度に留めおくように」という趣旨のことが書かれたものが現存しているそうです。(『太閤の手紙』)
つづく

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